
Teraoka’s 100thAnniversary
A Messageof Gratitude from TERAOKA
100 Years ofTERAOKA's History
100 Years ofTERAOKA's History

1900年代
1900年代の初頭。
寺岡豊治のパイオニアスピリットから、
すべては始まった。
後に初代社長となる寺岡豊治は、「これからの日本は工業立国としての道を歩むことになる」と、1906年に渡米。ロサンゼルスポリテクニックハイスクールで機械工学を学ぶ。
強いパイオニアスピリットを持つ豊治は1912年に帰国してすぐ会社を設立。アメリカで学んだ機械工学の知識を総動員して日本初となるレジスター型の計算機を開発、販売する。
当時は計算機など見たことも聞いたこともない時代。古い常識の中にあって常識をはるかに超えたアイデアは、それがいかに価値を秘めたものであろうと、容易に受け入れてはもらえなかった。






1910年代
いずれの事業も失敗。
しかし豊治は希望を失わない。
「雲の上には太陽がある」。
計算機の他にも、表字時計の開発、人力車メーターの製造、富士登山バス会社、月賦住宅建設会社の経営なども手がけるが、いずれも失敗。しかし「雲の上には太陽がある」という言葉が好きだった豊治は、いつも希望を持ち続け、新たな事業に挑戦していった。
そんな時に、豊治は「はかり」を目にする。当時のはかりはローマ時代に発明された棹(さお)ばかりからメカニズム的な進歩を遂げていない代物だった。





1920年代
使いやすさが評判を呼び、
「寺岡式敏感自動秤」は、
はかりの新しい常識となる。
「もっと正確で使いやすいはかりがあれば、人々はその便利さに必ず喜びの声を上げる」。技術のイノベーションと、その技術に歓喜する人々の姿を先見的に思い描き、豊治はバネの原理を用いて針で目方を指す多回転式の世界初の商業用自動秤「寺岡式敏感自動秤」を1925年に開発した。かくして当社は歩みを始める。そして、1928年以降日英米仏4カ国の特許を取得。同じ年に国産振興阪神大博覧会で金杯を授与されるなど、その性能は高く評価された。
その一方で、非常に高額であったこともあり、「こんな商品誰が使うのだろう」と揶揄された。そこで豊治は“日掛けの分割払い方式”を採用。日銭商売であった食品小売店に向けて、高額支払いの負担感・購入へのハードルを下げる画期的な販売方法を導入し、すぐに使えるような仕組みづくりも行う。
そして、これまで経験したことのない使いやすさを実感した食品小売店の間で評判が評判を呼び、「寺岡式敏感自動秤」は瞬く間にはかりの新しい常識となる。





1930年代
好事魔多し。
役員の背反に嫌気が差した豊治は、
会社を去る。
1928年に豊治が社長に就任して以降、朝日衡器製作所は大きく発展し、はかり事業も順調に成長を続けていた。ところが好事魔多しの例えの通り、会社に内紛が起こる。朝日衡器製作所の役員会が、社長である豊治の方針に反し、「精度にこだわるより、価格を低くして拡販すべし」と決定したのだ。
役員の背反に嫌気が差した豊治は、社長の職を辞し、持ち株をすべて処分した。 1936年のことだった。



1930年代
家庭用はかりの量産を開始。
寺岡精工所を設立した寺岡武治は、
父・豊治を社長に迎える。
豊治の長男である寺岡武治が、寺岡研究所を設立したのは1934年。わずか17平方メートルの平屋建てでのスタートだった。
「寺岡式敏感自動秤」は相変わらず飛ぶように売れていたが、ただ1つのウィークポイントに豊治は気づいていた。それは温度差によって生じるバネの誤差。
父・豊治から、温度変化による誤差を防ぐための素材研究を提案された武治は、バイメタルの原理を秤の機構に応用した温度誤差補正装置を考案し、実用新案を取得する。
そして1938年、温度誤差補正装置を組み込んだ家庭用はかりの量産工場を完成させた武治は、寺岡精工所を設立。その初代社長として、父・豊治を迎えた。






1940年代
マイクロメーターで事業をつなぎ、
1946年からはかりの生産を再開。
第二次世界大戦中は、はかりの生産が難航するなか、とりわけ高度な技術を要するマイクロメーターの研究開発に力を注ぐ。そして1940年には精密比較測定器1000分の1ミリ、1942年には寺岡式超微測長器1万分の1ミリを完成。1941年10月東京・上野で開催された精密機器展覧会で高い評価を得る。
終戦を迎えたのは1945年。翌1946年から、はかりの生産を本格的に再開する。




1950年代
はかりだけに留まらない挑戦。
自動巻カメラで一時代を築くも、
一定の成果を残して撤退。
はかりの生産を本格的に再開して5年。 1951年に日本初の「機械式料金秤」を発売する。ネオン管による内部照明方式の採用により「ネオン秤」と命名されたこのはかりは、温度変化の影響を受けない“温度不感バネ”を初めて採用した、画期的な製品だった。
当社の挑戦は、はかりだけに留まらない。1954年に日本初の35mm自動巻カメラ「オートテラ」を発売する。当時、連写、速写ができるカメラはオートテラだけであり、プロカメラマンの強い支持や、警視庁からの特注も寄せられた。
しかし販売ネットワークの構築が追いつかず、カメラ事業は10年間で一定の成果を残して撤退することになる。






1960年代
日本初の純電気式自動ドアは、
当社の挑戦から始まった。
もう一つのパイオニアストーリー。
挑戦は新たな領域へと向かう。1962年、寺岡精工所は自動ドア事業に進出したのだ。
1950年代、欧米視察を行なった武治が感心したのは、スーパーマーケットでも自動ドアが設置されていたこと。日本では、ホテルや銀行といった限られた場所でしか設置されていないのが現状だった。
「小型で廉価な自動ドアが開発できれば、相当な需要が見込める」との思いで、武治は早速自動ドアの研究開発に取り掛かった。
1号機が完成したのは1960年。日本初の純電気式自動ドアであった。製造から販売まですべて自社で行う必要があったが、1964年に開催された東京オリンピックの追い風もあり、事業は順調に成長。全国へ販路を広げるとともにオランダへも輸出するなど、製品力の評価は国外にも及んだ。
現在は別会社「寺岡オートドア」として、日本の自動ドア市場において約25%のシェアを占めるに至っている。





1960年代
さまざまな挑戦の結果、
「はかり事業」が
基軸であることが明確に。
カメラ事業や自動ドア事業など、さまざまな挑戦を繰り返してきた当社だが、1960年代に入り、流通小売業向けのはかり事業が当社の基軸であることが明確になっていく。
遡ること1959年。日本の計量制度は計量法に一本化され、重さの単位は「匁(もんめ)」ではなく「g(グラム)」に統一された。この移行に伴い、小売業などで使用されるはかりの刷新が必要となり、計量機器に大きな特需を生み出していた。
この好機に、「はかりの寺岡」としての存在感をさらに高めるべく、インダストリアルデザイナーの柳宗理にデザインを委託。こうして生まれたのが、下皿秤「パール」である。
人間工学に基づく操作性とインテリア性を兼ね備えたパールは、業界で初めてグッドデザイン賞を受賞。その洗練された佇まいは、店頭に設置すること自体が流通小売店のステータスとなり、寺岡精工所は業界トップの座を不動のものとした。





1970年代
はじめて見せた“足踏み”で、
後発メーカーの立場に。
その8年後、「DIGI」が登場。
1973年、当社が発売した電子料金秤「DIGI」は、市場に旋風を巻き起こす。
実はその8年前の1965年、寺岡精工所は世界初の電子料金秤の開発に成功していた。しかし、1台あたり200万円という当時の新卒初任給の約90ヶ月分に相当するコストゆえ、製品化は見送られる。創業以来、時代を先取りした製品を果敢に世に送り出してきた当社が、初めて見せた“足踏み”だった。
この決断で、当社は電子料金秤においては後発メーカーの立場に甘んじることになる。さらに、同業他社だけでなく、はかりとは無縁であった弱電メーカーも次々と参入して競争は激化。市場は10数種類もの電子秤がひしめき合う状況となる。
そんな厳しい競争環境に登場したのがDIGIだった。きめ細やかなリサーチで使いやすさを追求し、独自の専用LSIを搭載したDIGIは、はかりの価値を「ものの重さを量る道具」から「経営を支援するツール」へと変革させる。そうしてDIGIは、当社のシェアを業界トップの30%まで回復させ、さらに圧倒的な50%のシェアへと急拡大させる原動力となった。
ちなみにDIGIは、日本国内にとどまらず、世界的なヒットとなる。世界への扉を開いた「DIGI」は、いつしか当社のグローバルブランドとして定着し、現在に至っている。



1970年代
計量技術を活かせる
新たな成長市場として、
製造・物流分野へ進出。
1970年代、当社は計量技術を活かせる新分野として、ファクトリーオートメーションが進む産業分野に着目する。
工業部品などの管理工程の自動化需要に応え、1972年に電子料金秤 の技術を応用したデジタルカウンティングスケール「DC-1000」を開発。演算によって総重量、単位重量から個数などを即座に表示するものであった。さらに翌年発売の「DC-3000」は、ロードセルの採用によって分解能1/25万を実現する世界初のカウンティングスケールとして、ヒット商品となった。
商業用秤よりも高い精度が求められる工業用秤の分野に道を開いたカウンティングスケール。これを皮切りに、デジタル台秤と表示器をコンポーネント化した「DIGI COMPO」、部品と在庫の管理をシステム化する「MATEX」シリーズなど、効率化と正確さを求める製造・物流業界に、革新的なソリューションを送り出していく。




1980年代
社運を賭けた大事業。
唯一のフルラインナップメーカー
を目指し、POS市場へ進出。
1981年に寺岡精工所から寺岡精工へと商号を改めた当社は、4年後の1985年に社長に就任する寺岡和治の主導で、社運を賭けた大事業に乗り出す。POS市場への進出である。
すでにレジ周辺機器としてバーコードプリンターを手がけていた当社にとって、POSの製品化は自然な流れであり、必然の選択だった。POS市場は大手メーカー20数社がひしめく激戦区だったが、和治の決意は固かった。「チャレンジ精神を失えば当社の存在価値は失われる。POSへの進出ほど、われわれのチャレンジ精神をふるいたたせるものはない」と。
そして当社は、1984年に「SUPER-M3000」を発売する。「過去を分析し、明日を予測する」というキャッチフレーズの通り、過去の販売実績を分析し未来の販売計画をプログラムするソフトウェアを搭載。業界初の「ストレート対面カウンター」方式を採用したSUPER-M3000は、販売直後から市場の支持を得て、着実にPOS市場のシェアを伸ばしていった。




1980年代
現場主義から生まれた、
バックルームにおける
新しい常識。
1980年代当時、スーパーマーケットのバックルームでは、食品の計量・包装・値付はそれぞれ手作業で行われていた。すでに計量器とラベルプリンターの知見を持っていた当社は、食品トレーをパックする包装機と、計量・値付の技術を組み合わせれば、作業を一台で完結できるのではと考案する。そうして誕生したのが、世界初となる自動計量包装値付機「AWW-2000」である。作業効率を高めるだけでなく、省スペース化で作業環境改善にもつながるAWW-2000は、バックルームにおける新しい常識となった。
その後、当社の包装機を語るうえで欠かせない技術、「スーパーストレッチ包装」が1990年代に発明される。フィルムを包装物の大きさに合わせて引き伸ばし、包み込むこの技術により、さまざまな大きさのトレー、さらにはトレーのないむき出しの青果をもそのまま包装できるようになった。こうして当社は、精肉、鮮魚、総菜、青果の全部門に携わり、スーパーのバックルームをさらに進化させていくことになる。


1980年代
小売業界の構造変化を捉えて、
食品製造・加工分野へ進出。
そして「中食」市場とともに拡大。
時代とライフスタイルの変化に応じながら、常に業態の進化と効率化を模索してきた小売業界。1980年代には、スーパーマーケットの多店舗展開が進む中、鮮魚や精肉といった生鮮品のパック工程を店舗内(インストア)から専用の加工センターへと集約する動きが始まる。
こうした構造の変化を捉え、当社は最大毎分100個の高速計量値付が可能な「HI-6000」を開発。高速で高効率性を誇るこの製品は、食品製造・加工分野分野における“新しい常識の創造”の第一歩となる。
そして1990年代になると、テイクアウトやデリバリーなどの「中食」市場が成長し、コンビニエンスストアの急速な店舗展開が進む。当社は、他社に先駆けて開発した「定額ラベルシステム」を強みに、台頭し始めた食品スーパーの生鮮食品・総菜センターや弁当工場を早期から支援。やがてコンビニエンスストアの急速な店舗展開が進むと商品の供給を担う顧客も増え、食品製造・加工分野の事業規模は急速に拡大していった。




1990年代
輸出中心の“第一の国際化”から、
すべてを世界各地で行う
“第二の国際化”へ。
そもそも、はかりは輸出入には不向きな製品とされていた。なぜなら国ごとに計量単位や計量法が異なり、国際商品となりづらかったのだ。
しかし、どのような計量単位でも商品を乗せるだけで瞬時に料金を表示できるデジタル料金秤が一般化したことで、はかりは国際商品へと進化する。当社でも、日本で旋風を巻き起こしたDIGIが世界的なヒットとなり、1970年代に輸出を中心とする“第一の国際化”が花を開いた。
そして当社は、グローバル・ローカライゼーションを核とする“第二の国際化”へと向かう。商品の輸出に留まらずに、マーケティング・開発・製造・販売のすべてを世界各地で行う新しい挑戦だ。
輸出から現地創造へ。第二の国際化の要として、1986年にシンガポール、1989年にイギリス、そして1993年には中国に拠点を開設。日本を含むグローバル4拠点体制が1990年代に完成した。





2000年代
現場の課題を解決。
飲食・専門店の分野でも、
確かな信頼を築く。
2000年代に入り、飲食店や専門店では、慢性的な人手不足、業務の非効率、そして衛生面への懸念といった、現場が抱える本質的な課題があった。
どのような分野でも現場主義を貫く当社は、こうした実情を捉え、飲食・専門店の分野でも“新しい常識”を創造できると判断。専用システムや券売機の開発に注力していく。
そうして生まれた一つが、2006年に発売したクラウド型統合システム「Delious(デリオス)」である。飲食店のフロアとキッチン、そして本部までを一元データ管理で結ぶトータルソリューションで、店舗オペレーションの質を大きく改善。全国チェーン店でも導入が相次いだ。こうして当社は、飲食・専門店の分野でも、確かな信頼を築いていった。



2010年代
スーパーマーケットの
“レジ革命”。
チェックアウトレボリューション。
2010年、当社は「チェックアウトレボリューション」を宣言する。チェックアウトレボリューションとは、スーパーマーケットの「レジ待ち」「人手不足」「接客負担」といった会計時における課題を解決する“レジ革命”に他ならない。
最初のチェックアウトレボリューション(1.0)では、「セミセルフレジ」の導入を中核に据えたソリューションを提案。「スキャニング」は店員、「会計」は買い物客が行うという革新的な新発想であったが、スーパーマーケットからは「お客さまに会計をさせるなんて」「お客さまとの唯一の接点なのに」といった声が寄せられる。実際導入は進まず、初年度の販売はわずか2店舗、翌年も10店舗と、厳しい立ち上がりとなった。
それから十余年。会計を買い物客が担う「セミセルフレジ」によるレジ待ちのない快適な買い物体験が当たり前となり、スキャニングから会計まで買い物客が自ら行う「フルセルフレジ」ですら日常となった。スーパーマーケットで、かつて非常識とされた発想が、今や常識となったのだ。





2010年代
サービス&クラウドで、
新しい常識の創出に挑む。
2010年代に入り、当社はサービスとクラウドの分野でも取り組みを本格化させる。長年培ってきた現場主義に立脚したサービスと、“クラウド”という言葉が一般的でなかった時代から提唱してきたネットワーク型データ管理技術を融合させ、ワンストップでの導入、運用・管理を推進したのだ。
たとえば、システムの稼動状況を24時間見守るリモート監視システムや、キャッシュレス決済サービス「Payoss(ぺイオス)」などの先進サービスによって、業務プロセスの高度化や現場のDX化を支援。顧客のニーズを常に先取りしながら、当社独自のサービス&クラウドで、新しい常識の創出に挑み続けている。




2020年代
わくわくする未来に向けた、
新しい挑戦。
Grow with Green。
はかりの開発から歩みを始めた寺岡精工は、つねに現場に寄り添いながら、その時代に求められるソリューションを形にしてきた。自動包装計量値付機やラベリングシステム、POSシステムなど、進化を続ける技術の先にあるのは、現場の課題を解決し、「お客様をわくわくさせよう」という一貫した思いである。
1990年代より各種の製品を通して環境問題に取り組んできた寺岡精工は、2023年に大きな事業テーマを掲げる。それは「Grow with Green」。顧客が抱える環境・社会課題を解決することで、顧客とともに成長していく決意を込めた言葉だ。
CO2削減、ゼロ・ウェイスト、フードロス削減、脱プラスチックといった環境課題を解決する「SXソリューション」。働く人の負荷を軽減する「現場のDX化」。そして、その結果もたらされる「ビジネスの成長」。Grow with Greenをテーマに掲げた寺岡精工は、お客様がわくわくする未来に向けて、新しい挑戦を続けている。




Our Key Storiesof TERAOKA
100年の歴史の中で、数多くの
挑戦や革新を積み重ねてきた私たち。
世の中に新しい常識を創造した
7つのエピソードを、マンガでご紹介します。


TERAOKA’sBusiness Fields
TERAOKAは「流通小売」「食品製造・加工」
「製造・物流」「飲食・専門店」という
4事業分野と、それらを支える
「サービス&クラウド」で
お客様のビジネスに貢献しています。
その“リアルな活動”を、マンガを通して
実感してください。

Towardthe Next 100 Years
Towardthe Next 100 Years
わくわくする未来のために
私たちには、変わらないビジョンがあります。
それは「新しい常識を創造する」こと。
既存の市場の常識を壊して、
新しい市場を自ら創り、
そうしてできた常識をまた打ち壊すのです。
そしてこの挑戦の根底にあるのは、
“お客様をわくわくさせたい”という思い。
私たちの挑戦に終わりはありません。
期待と実りに満ちた、
わくわくする未来のために、
お客様とともに歩み続けます。






























